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third kamikaze wikipedia

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Some kamikazes were able to hit their targets even after their aircraft were crippled. [19], One source claims that the first kamikaze mission occurred on 13 September 1944. The word originated from Makurakotoba of waka poetry modifying "Ise"[8] and has been used since August 1281 to refer to the major typhoons that dispersed Mongol-Koryo fleets who invaded Japan under Kublai Khan in 1274. 同 海軍飛行兵長 永峰 肇 The First Naval Air Technical Bureau (Kugisho) in Yokosuka refined Ohta's idea. By the Battle of the Philippine Sea (June 1944), the Japanese had to make do with obsolete aircraft and inexperienced aviators in the fight against better-trained and more experienced US Navy airmen who flew radar-directed combat air patrols. Kamikaze is an Argentine heavy metal band. The tradition of death instead of defeat, capture and shame was deeply entrenched in Japanese military culture; one of the primary values in the samurai life and the Bushido code was loyalty and honor until death. Gordon says that the Warners and Seno included ten ships that did not sink. Kamikaze es una banda argentina de Heavy Metal, formada en Buenos Aires en 1985, especialmente activa durante la segunda mitad de los 80's y principios de los 90's. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。, 昨日、搭乗した零戦の不時着で大西と会えなかった中島は、20日の夜明けを待って車でマバラカットに到着したが、司令部で特攻発動の命令と関が全特攻隊員の指揮官に任じられた事を知り、さらにセブ島にて特攻隊を編制するよう指示を受けた[58]。そこで中島は、すでに特攻に志願し、さきほど大西の訓示を受けたばかりの大和隊4名を引き連れて、合計8機の零戦に分乗してマバラカットを発ってセブ島に向かった。飛行場に着陸した中島は搭乗員と整備士全員の集合を命じて、必中必殺の体当り部隊「神風特別攻撃隊」が編成され、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名され、自分が引き連れてきた4名はその志願者であることを説明し、「私はセブ基地における特攻隊の編成を命じられて来た。志願する搭乗員は等級氏名を書き封筒に入れて密封し先任搭乗員を通じて私の所に届けよ」「家庭の事情によって志願出来ない者もいることと思う。飛行機の数は少ないので、志願できないものは正直に白紙を入れよ。私は誰にもこの内容を公表しない」などと特攻への志願者を募った[85]。, その後、中島はセブ基地の司令部に入ったが、2階の作戦室兼寝室に入るや、階段を上ってくる足音が聞こえて、作戦室の扉をノック後に海軍予備学生の久納好孚中尉が入ってきた。久納は中島の顔を見るなり「私が特攻隊から除外されることはないでしょうね?」と中島に尋ねた。中島は久納の物静かであるが心中に烈々たるものを秘めているという性格を知り尽くしており、必ず志願すると思っていたため「君の乗る特攻機は、ちゃんとマバラカットから持ってきてるよ」と答えると、久納はにっこりと笑って敬礼し、作戦室を退出していった[86]。久納は法政大学在学時からピアノの演奏に秀でており、志願ののち、中島と久納は夕食をともにしたが、その際に久納はピアノを演奏している。久納の演奏を聴いていた他の士官たちは溢れる涙をおさえることができなかったという[87]。久納は大学生出身の予備士官で兵学校出身者よりは気さくに下士官や兵士と付き合い、また操縦技術にも優れていたため人望も厚く、久納の志願は下士官以下の特攻隊員の志願を後押しした[88]。, その後も、中島の元には志願者が次々と訪れた。まずは偵察機隊から特務士官の国原千里少尉が来ると不満そうに「飛行長は、下士官兵に対しては神風特攻の志願を聞かれた。それなのに准士官以上にはなんの話もされない。我々はどうしてくれるのですか」と詰め寄ってきたので、中島は微笑みながら「准士官以上はどうするのかな?」と尋ねると、国原は「ひとり残らず熱望です」と答えたので、中島は「それだから何も聞かないのではないか」と国原の志願を了承すると、国原は「ありがとうございます」と喜んで出て行ったという[89]。しかし、兵学校出身者や予備士官と異なり、兵卒からたたき上げの准士官は同じ士官と言えども年齢が高く、30歳を超えるであろう後ろ姿を見た中島は「妻子がいるのであろうが、残る家族のことをどう考えているのか」と痛ましく感じた[90]。, もっとも逡巡したのが久納と同じ海軍予備学生の植村真久少尉で、植村は立教大学でサッカー部の主将であったが、学徒動員で海軍予備学生となり、戦闘機搭乗員となっていた。植村は20日の深夜に中島の元を訪れたが、何も言い出せないまま一旦は帰ってしまった。翌晩も中島の作戦室に上がってきて、中島になんともないことを話しかけるとそのまま作戦室を後にした。さらに、3日連続となる翌晩の深夜にも中島の元を訪れたので、中島は植村の心中を察して「君は再三やってくるが、特攻を志願にきたのではないか」と切り出すと、植村はすまなそうに「じつはそうなのです」「飛行長の顔を見ると、どうしてもそれが言い出せないのです。ご存じのように、私は他の者よりも操縦技術がまずいものですから」「私は先日も、訓練で大切な飛行機をこわしました」「私は自分が技倆がまずいのをよく知っているのですが、こればっかりはどうしても諦めきれないのです」と話したので、中島は感動のあまり声を失ったが、ようやく立ち上がって植村の肩を叩くと、「心配するな、お前ぐらいの技倆があれば、特攻隊員には十分だ。俺がきっとよい機会をみつけてやる、心配せずに寝ろ」と語りかけた。植村の表情はようやく明るくなって「よろしくお願いします」と部屋を出て行ったが[91]、植村は既に結婚し長女素子も誕生しており、志願後に素子に向けた遺書を書いている。素子は戦後に父親と同じ立教大学に進学し、在学中に靖国神社の拝殿で亡父に向けて日本舞踊を奉納している[92]。, 中島の手元には20数通の志願書が先任搭乗員から届けられたが、白紙の志願書は2通のみで、他は全員熱望であった。白紙の2名もいずれも病気で航空機の操縦ができない搭乗員のものであったという[93]。, 10月20日の15時頃に、敵艦隊をサマール島東方海面に発見したという報告が司令部に寄せられた。午前中に特攻隊員に訓示していた大西はまだマバラカットにおり、猪口は敵の位置を書き込んである海図を持って、バンバン川の河原で関ら特攻隊員と雑談を交わしていた大西に「特別攻撃隊には距離いっぱいのところですが、攻撃をかけましょうか?」と判断をあおいだところ、大西は、「この体当り攻撃は絶対のものだから、到達の勝算のない場合、おれは決して出さない」と答えている。猪口はこの大西の攻撃自重の判断を聞いて、大西が初回の特攻にどれだけ慎重であるか思い知らされたが、これ以降新しい情報もなかったため、大西は一旦マニラに帰還することとした[94]。帰り間際、大西は副官の門司の水筒に目を付けると「副官、水が入っているか」と尋ねたので、門司が水筒を大西に渡すと、大西はまず水筒の蓋で自ら水を飲み、次いで猪口と玉井にも水を飲ませて、その後水筒ごと玉井に手渡し、あとは玉井が並んでいる関大尉以下7名の特攻隊員に水をついでいった[95]。このときの様子をカメラマンの稲垣が撮影しており、のちに内地で、8月21日の関率いる敷島隊の出撃前の様子として日本ニュースで報道されたが、実際にはその前日の出来事で、敷島隊と大和隊両隊の隊員が入っており、敷島隊のなかでも永峯肇と大黒繁男の2名が入っておらず、待機姿勢であるので服装もバラバラで、飛行服を着ているのは関と山下憲行の2名のみ、残りの5名は防暑服を着用している[96]。稲垣は玉井から事前に「重大なことがあるから一緒に来るように」と呼び出されており、撮影に準備をしていたのでこのシーンを撮影できたものであるが、大西は特攻隊員への訓示でも述べた通り、神風特別攻撃隊の国民への周知について強い拘りを持っており、この「訣別の水盃」のシーンも敢て大西が意図して撮影させたという意見もある[96]。, この夜に、報道班員の同盟通信記者小野田政は、入院していた201空司令の山本の許可をとって、関を取材すべくマバラカットの基地に向かった。関と小野田はバンバン川の河原の砂利石の上に腰を下ろしたが、関は二人きりになったところを見計らって「報道班員、日本はもうおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当りせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500kg爆弾)を命中させる自信がある」、艦上爆撃機出身者らしい関の自信にあふれた言葉ではあったが、関には一度も急降下爆撃の実戦は経験していなかった[97]。関はさらに「ぼくは天皇陛下とか日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍用語で妻のこと)のために行くんだ。命令とあればやむを得ない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」と冗談めいた口調で言い切った。201空に着任以来、艦爆出身のよそ者で本心を打ち明ける同僚もなく、隊では孤立ぎみであった関は、同じくよそ者の記者の小野田に一気に心の鬱積を解き放ったかのようであった。さらに関は小野田を前にして、胸ポケットに大事にしまっていた新妻満里子の写真を見せびらかすと、その美しさを褒め、茶目っ気たっぷりに写真にキスしてみせるなど戯けて見せた。最後に関は一緒に出撃する他の特攻隊員らのことを慮って「ぼくは短い人生だったが、とにかく幸福だった。しかし若い搭乗員はエスプレイ(芸者遊び)もしなければ、女も知らないで死んでいく・・・」と話している[98]。, 神風特別攻撃隊の初出撃は10月21日となった。陸軍の一〇〇式司令部偵察機が敵機動部隊発見を知らせてきたため、この日、マバラカットからは敷島隊4機と朝日隊3機と護衛戦闘機隊が出撃することとなった。玉井は昨日大西が残していった副官門司の水筒を取り出すと、昨日と同様に一人一人に別れの水を注ぎ、自ら音頭をとって「海ゆかば」を合唱した。玉井は関らに「攻撃目標の第一は空母、まず大型、中型、小型の順に狙え。ついで戦艦、巡洋艦、駆逐艦の順だ」「突入高度は3,000m、低空で進入し、事前に高度をとり、切り返してつっこめ」と徹底した[99]。関は熱帯性の下痢を患って、治療中で絶食しており無精ひげも伸び放題であったが、この日は朝から「今日、ぶつかりにゆくんですよ、顔くらいきれいにして行きたいと思ってね」と軍医の副島泰然大尉に髭剃りを依頼し、さっぱりしていた。初めて特攻のことを聞いた副島は、絶食中の関に少しでも力がつくようにと、虎屋の丸筒羊羹を差し入れている[100]。やがて玉井から出撃が下命されると、関は玉井の前に立ち「只今より出発します」と決然と挨拶し、紙に包んだ関以下特攻隊員全員の遺髪を「副長、お願いします」と言って手渡した[101]。午前8時に関率いる敷島隊と朝日隊は、司令部や整備員たちの「帽振れ」に送られて離陸したが[102]、このときの光景を昨日大西と関らの「決別の水杯」のシーンを撮影した稲垣が撮影しており、後日、8月20日の撮影分と合成して一連の出撃シーンとして日本ニュースで放映された[96]。関らは悪天候で敵艦隊を発見することができず全機帰還したが、関は報告の際に玉井の前でうなだれるばかりであった。卑怯者と思われたくないとする関の気持ちの表れであったが、玉井はこれをねぎらって宿舎に帰している[102]。, セブ島にも「敵機動部隊発見」の報告があり、中島は即、大和隊に出撃を命令、整備員からは今までの経験則から40分で出撃準備が完了するとの報告があった。中島はその報告を聞くと出撃する特攻隊員らと航空図を見ながら打ち合わせを行っていたが、この日は整備士が迅速な作業をしたので、わずか10分で出撃準備が完了してしまった。中島は滑走路に爆装した零戦が整列している状況は危険と慌てたが、打ち合わせや注意事項の言い渡しが終わっていなかったので、端折ってこれを完了させ、いざ出撃と特攻隊員が機体に乗り込もうとした矢先、アメリカ軍の艦載機が来襲してきた[103]。201空は先日も「ダバオ誤報事件」のさいに同じセブ島で地上で多数の零戦を撃破されるという失態を演じていたが[42]、約1ヶ月後も同様の失敗をして、地上に並べていた6機の零戦が撃破された。幸いにも搭載していた爆弾が誘爆することはなく、特攻隊員に死傷者が出なかったので、中島はただちに予備機による出撃を命じ、2機の爆装零戦と1機の護衛が準備された。爆装零戦に搭乗するのは久納と大坪一男一飛曹と決まった。久納は中島に「私は戦果を新聞やラジオで発表してもらうのが目当てで突入するのではありません。日本軍人として、天皇の為、国家の為、この身体がお役に立てば本望であります」「いまは飛行機が足らないときです。わざわざ直援機をつけるのはもったいない話です。どうか特攻機だけでやらせて下さい」と直談判した[104]。中島が護衛戦闘機は新聞やラジオが目的ではなく、作戦資料として実態を把握したいだけと説くと、次に久納は機体が軽くなって航続距離が伸びるからと機銃を外して欲しいと申し出し、それに中島が突入するまでは敵戦闘機に発見されたら空戦で切り抜けねばならないから機銃は外せないと説くなど、出撃直前まで押し問答をしている。出撃の時間となると久納は諦めて「敵の空母が見つからぬときは、私はレイテ湾に突入します。レイテに行けば獲物に困ることはないでしょう」と言い残し、16時25分に2機編隊で1機の護衛機を連れて出撃した[105]。, 途中で攻撃隊は天候に阻まれて、特攻の大坪機と護衛機はセブ島に帰還したが、隊長の久納は帰還せず行方不明となった。突入との打電もなかったが、出撃前に中島にレイテに向かうと誓っていたので、そのままレイテ湾に向かったと見なし、中島は「本人の特攻に対する熱意と性情より判断し、不良なる天候を冒し克く敵を求め体当り攻撃を決行せるものと推定」と報告した[106]。この久納の未帰還をもって「特攻第1号」は関ではなく、久納好孚を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という[107]。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという[108]。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視、海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している[109]。この日の連合軍の損害はオーストラリア海軍の重巡洋艦「オーストラリア」が特攻により損傷し、「オーストラリア」はこの特攻でエミール・デシャニュー(英語版)艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死するなど大きな損害を受けたが、これを久納の戦果という意見もある。しかし、「オーストラリア」が特攻を受けたのは早朝6:05とされており、久納の出撃時間より10時間も前で時間が前後する上[110][111]、「オーストラリア」に突入したのは、陸軍航空隊第4航空軍隷下の第6飛行団の、特攻隊ではない通常攻撃隊の「九九式襲撃機」が被弾後に体当たりをして挙げた戦果とされている[112]。なお陸軍初の特攻隊となる「万朶隊」と「富嶽隊」はこの時点では未だ内地にいて、フィリピンへ進出準備中であった[113]。, 10月22日には第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が200機の戦力を擁して台湾からフィリピンに進出してきた。大西は当初、中島が「特別攻撃隊は、わずかこの四隊でいいのですか?」と訊ねると、「飛行機が少ないからなぁ、やむをえん」と答えるなど、特攻はこの4隊のみと考えていたが、連合艦隊の総力を結集した艦隊がレイテに接近しているなかで、連日の出撃でなかなか敵と接触できず、編成当初の目的であった「空母を一週間くらい使用不能」が果たせない中、大西も焦っており[114]、二航艦の戦力に自分の望みを託そうと考えて、二航艦でも特攻を採用するように福留を説得したが、福留はこれを断った[115]。福留の回想によれば、二航艦はマニラの一航艦司令部に同居することになったので、寝室も大西と福留は同室となり、大西は寝室においても、海軍兵学校の同期生でもあった福留に「戦局を挽回する望みのあるものは、航空部隊の特攻において他にはない」と熱っぽく説いたが、福留は「第二航空艦隊は編隊攻撃以外訓練していない」と理由でこれを拒絶したとしている。福留が明確ではない理由で特攻開始を断ったのは、「山本長官が生きていたら飛行機の特攻を許したであろうか」という思いからであり、特攻のような「万死」の手段に頼らずとも正攻法でアメリカ軍機動部隊に立ち向えると考えていた。しかし、その福留の自信はのちに打ち砕かれることとなる[116]。, 10月23日、朝日隊、山桜隊はマバラカットからダバオに移動した。同日には、セブ島の大和隊が爆装の零戦2機を出撃させて、そのうち佐藤馨上飛曹が未帰還となり、敵艦に突入したものと考えられたが戦果は不明であった[106]。唯一マバラカットに残った敷島隊は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、軍医の副島の回想では、満足に睡眠をとれない状況だったという。関の悲痛な気持ちは大西や山本らの上官もよく理解しており、引き続き「江田島出身者の体当りとして全軍に範を垂れさせたい」という大西の気持ちに変わりはなかった。久納の突入認定の報が入ったときには関は焦りを感じていたが、死にはやって海中に突入して自爆するようなことはしなかった[100]。毎日新聞の報道班員新名丈夫によれば、出撃しても敵を発見できず帰投を繰り返していた関は、ある日、飛行場指揮所のかげに腰を下ろして青い顔で頭を抱えながら「ああ、戦争というのは難しいなあ」と呟いていたという。新名は関が故郷に残してきた新妻や母を案じているに違いないと考えて涙したが、のちになって、このときの関は出撃を決意したときから残された家族のことは国に任せて、自分はいかにして小兵力で大敵を屠るか苦心惨憺していたに違いないと思い直している[117]。, 10月24日に4回目の出撃も失敗に終わった関は司令部に「索敵機の無電を聞いてから出かけても、現地に到着するまでには敵も移動しますし、最悪の場合は雲の中に入ってしまいます。そこで、フィリピン東方海面に進撃したら、索敵しながら南下し、発見次第突入することにしたいと思います」と申し出し了承された。10月25日、午前7時25分、関率いる5機の敷島隊はマバラカット基地から出撃した[118]。離陸する関は体調不良で衰弱してはいたが、この日はひとしお異様な厳しさが見えると見送った玉井や指宿は感じていたという。関が出撃した時点で、今まで敵艦載機の空襲で苦闘してきた第一遊撃部隊第一部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、戦艦「大和」座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が敵空母群を発見し、「敵空母に対し砲戦開始」という無電を打電しており[119]、それを知っていた一航艦司令部の幕僚たちは、この日こそ関は敵を発見して突入すると感じていた[120]。また、この25日には、関ら敷島隊の出撃より前の午前6時30分にダバオ基地から菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦も出撃している[121]。, 10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた「栗田艦隊」が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見して攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが[122]、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の友軍機影が映っていたため、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母「サンティ」に向かって急降下していた[123]。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42m2の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった[124]。, 続く2機は、護衛空母「サンガモン」と「ペトロフ・ベイ」に向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した[125]。残る1機は護衛空母「スワニー」に急降下。「スワニー」は対空砲火で応戦、零戦は火を噴いたものの、そのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を発生させた[126]。特攻機が命中した「サンティ」と「スワニー」の損害は大きかったが、いずれもサンガモン級航空母艦であり、排水量基準:11,400t 満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、この後も任務を続行した[122]。しかし、10月26日に「スワニー」はもう1機特攻機が命中して、損傷を被って戦線離脱している[127]。「スワニー」が攻撃を受けたのは正午すぎとされているが、この時刻から見て、攻撃したのは同日午前10時15分に出撃した植村率いる大和隊と見なされている。大和隊の3機のうち1機が急降下し、飛行甲板上にあった艦上攻撃機に激突、この艦攻もろとも大爆発、甲板上に並んでいた9機の艦載機も次々と誘爆し、アメリカ軍が報告書に「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」と記したほどの損傷と死傷者113名を被らせている。この殊勲機が隊長の植村であったかは不明である[128]。, この戦果はのちの関率いる敷島隊より先に挙げた戦果であったが、戦果報告は、菊水隊の護衛戦闘機が帰還した午前9時45分になされ、その戦果報告の確認のやりとりに時間を要して連合艦隊への報告が遅延し、結果的に3時間もあとの敷島隊の戦果が「神風特別攻撃隊」の初戦果扱いとなってしまった[129]。, 栗田艦隊との海戦(サマール沖海戦)で護衛空母「ガンビア・ベイ」と2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母「ファンショー・ベイ」や「カリニン・ベイ」など損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、戦闘配置命令を解除していた。命中弾を1発も受けなかった「セント・ロー」の乗組員たちは、沈没した「ガンビア・ベイ」の艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた[130] 10時49分、関が率いる敷島隊5機が急降下してきた。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、日本機の接近に気づくものはいなかった[125]。敷島隊の先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていた「カリニン・ベイ」めがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初に「カリニン・ベイ」に突入した機が関の搭乗機であったという説もある[131]。「カリニン・ベイ」にはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与え、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じさせたが、「カリニン・ベイ」は栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにも関わらず、沈没は免れた[132]。, 護衛空母「ホワイト・プレインズ」に向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標を「セント・ロー」に変更し[122]、「セント・ロー」の艦尾1,000mから高度30mの低空飛行という着艦するような姿勢で接近してきた。「セント・ロー」は搭載していたMk.IV20mm機関砲とボフォース 40mm機関砲で応戦したが、零戦はそのまま、発見1分後に[133]、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250kg爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタン価の航空燃料が誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した[134]。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦「ミネアポリス」の乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。手が付けられないと判断したフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2~3分後の10時56分に総員退艦を命じ、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した[135]。この「セント・ロー」を仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている[136]。他にも護衛空母「キトカン・ベイ」に1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため大きな被害は与えることができなかった。また、「ホワイト・プレインズ」直上で特攻機が爆発して同艦に火災を生じさせた[131]。, 敷島隊の戦果が司令部に届いたのは、スリガオ海峡で西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(通称:西村艦隊)が殆ど壊滅したという悲報が届いて沈痛な空気が流れ、栗田艦隊が敵空母艦隊と砲戦を開始したという一報が届いた後、その後の報告が届かずにやきもきしている状況のときであった。司令部に届いた電文は、敷島隊の護衛機がセブ島に帰還し、その搭乗員の報告によって中島が打電したもので、次の通りであった。「神風特別攻撃隊敷島隊1045スルアン島の北東30浬にて空母4隻を基幹とする敵機動部隊に対し奇襲に成功、空母1に2機命中撃沈確実、空母1に1機命中大火災、巡洋艦1に1機命中撃沈」[119] 大西はこの報告を聞くと、低く小さい声で何事かしゃべったが、副官の門司が聞き取れたのは「甲斐があった」の語尾だけであった。大西が特攻を決意し、その編成から出撃に至るまで一連の流れを見てきた門司は、大西の心中を察し、また、先日会ったばかりの関以下特攻隊員らの身を捨てた行為に感動して、「あの連中が、あの連中が」というような言葉にならない言葉が頭を駆け巡ったという[137]。大西は、わずか5機の体当りで、これだけの戦果を挙げたという特攻の大きな効果を認識し、「これで何とかなる」という意味のことを言ったが、これは、1機で1艦を葬ることができれば、行き詰まった日本の窮地に一脈の活路が開かれるかも知れないという思いから発された言葉であり、その場にいた司令部の幕僚らも同じ思いであった[138]。, この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて失われた[132]。しかし、このときに既に栗田艦隊は反転しており、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。この日には奇しくも、最初期から航空特攻を提唱していた城が、空母千代田でいわゆる「囮艦隊」としての任務を完遂後、アメリカ軍艦載機の攻撃で航行不能となり、艦隊から落伍したところを、重巡洋艦ウィチタ、ニューオーリンズ、軽巡洋艦サンタフェ、モービルの4隻を主力とするアメリカ軍艦隊の集中攻撃を受けて、千代田と運命を共にしていた[139]。, 10月26日、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。昭和天皇(大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦については知らされておらず、同月28日には説明資料も作成された[140]。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と嘉賞の言葉を受けた。その言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、セブ島にいた中島は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と述べた[141]。, 一方で、1度は大西の特攻開始の申し出を拒否した二航艦長官の福留であったが、10月23日と24日の正攻法は失敗に終わり多大な損害を被っていたので、25日に神風特別攻撃隊の大戦果が報じられると、今度は福留も大西の説得に応じ、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一聯合基地航空部隊」を編成することとなって、指揮官に福留、幕僚長に大西が就いた[142]。これ以降、幕僚長という肩書きの大西によって特攻は拡大していく[143]。, 大西は、第一聯合基地航空部隊の飛行隊長以上40名ほどを召集し、「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。このことに批評は許さない。反対するものは、たたき斬る」と強い言葉で語った。大西の強い言葉を聞いて、一同はシンとして一言を発する者すらいなかった。大西の副官であった門司親徳少佐は、今まで特攻を拒否してきた二航艦の士官に特攻の決意を固めさせるため、敢て大西が強い言葉を使っていると理解したが、なかには、歴戦の戦闘機指揮官の第203海軍航空隊の飛行長岡嶋清熊少佐のように、見るからに反駁している顔つきの者もいて、門司は不安を抱いている[144]。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導し、さらに大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなども話した[145]。大西の強引な作戦指導に岡嶋ら航空幹部の一部は批判的であったが、大西は搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負しており、現在の戦況を冷徹に分析し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬと覚悟を決めていたので、かような強い言葉での作戦指導となったという意見もある[52]。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、「第一聯合基地航空部隊機密第一号 神風特別攻撃隊の編成ならびに同隊員の取扱に関する件」として軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された[146]。, 連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や[147]、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊、元山海軍航空隊、筑波海軍航空隊、神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾の台中・台北で10日間集中的に訓練された後にフィリピンへ送られた[148]。, 特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった[149]。, その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日にエセックス級正規空母「イントレピッド」、10月30日にエセックス級空母「フランクリン」 、インディペンデンス級軽空母「ベローウッド」、11月5日にエセックス級空母「レキシントン」、11月25日に「エセックス」とインディペンデンス級軽空母「カボット」 が大破・中破して戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された[150]。, 特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している[151]。, ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている[152]。, フィリピンの戦いを指揮したアメリカ南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」と、アメリカのほかイギリス、オーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはチェスター・ニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており[153]、特攻に関する検閲は大東亜戦争中で最も厳重な検閲となっている[154]。, 1945年1月1日、ダグラス・マッカーサー元帥が自ら指揮する連合国軍大艦隊が、ルソン島攻略のため出撃したが、その艦隊に対して日本軍は激しい特攻を行った。1月4日、風間万年中尉率いる旭日隊の彗星艦爆が護衛空母「オマニー・ベイ」を撃沈した[155]。1月6日に連合国軍艦隊はリンガエン湾に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中して7機が有効至近弾となり、連合国軍艦隊は多大な損害を被った[156]。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで出撃した。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に配備した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させるといった巧みな運用で対抗した。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった[157], 米戦艦「ニューメキシコ」には、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの名代として、イギリス陸軍観戦武官のハーバード・ラムズデン(英語版)中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている[158]。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦「ボイシ」も特攻機に攻撃されたが損害はなかった[159]。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻がルソン島の戦いの帰趨(きすう)を左右するような威力を有していると懸念している[160]。また、上陸部隊を援護していた第77.2任務群の司令官ジェシー・B・オルデンドルフ少将は「日本軍の特攻機は大した妨害も受けずに攻撃を実施することが可能のように見受けられる」「リンガエン地区付近の大小全ての飛行場に対して、連続的に爆撃を加え、無力化して状態をつづけさせるようにしなければならない」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後の重要な作戦に、重大かつ不利な影響を与えるかも知れない」「特攻機が輸送艦を攻撃した場合、その結果は悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告を行ったが[161]、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。しかし、最後まで特攻で大損害を被ったアメリカ軍のなかには、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある[156]。, 一航艦はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合国軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが[162]、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった[163]。, 海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い[164]、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失った[165]。アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して[166]、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の戦術としての有効性が際立つこととなった[167]。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻は精々のところ遅滞戦術の一つに過ぎないことも明らかになった[168]。, 台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母「タイコンデロガ」に2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆して沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、ディクシー・キーファー(英語版)艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた[169]。大西はこの頃から沈黙の時間が長くなった代わりに、死について語ることが多くなった。ある日、イタリアの戦犯のニュースの話題になったとき大西は「おれなんか、生きておったならば、絞首刑だな。真珠湾攻撃に参画し、特攻を出して若いものを死なせ、悪いことばかりしてきた」と幕僚たちに述べている[170]。, 1945年2月17日、連合艦隊はアメリカ艦隊を泊地ウルシーで攻撃する丹作戦を命令した。攻撃部隊として、銀河陸上攻撃機を基幹とする特攻隊を編成し「菊水部隊梓特別攻撃隊」と命名した。銀河には、それまでの500キロ爆弾1発もしくは250キロ爆弾2発ではなく、魚雷にも匹敵する威力の800kg爆弾が搭載された[171]。1945年2月19日には、硫黄島にアメリカ軍が上陸し、硫黄島の戦いが始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた[172]。第六〇一海軍航空隊で編成された「第二御盾隊」は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母「ビスマーク・シー」を撃沈、正規空母「サラトガ」に5発の命中弾を与えて大破させた他、「キーオカック」(防潜網輸送船) (英語版)も大破させ、護衛空母「ルンガ・ポイント」とLST-477 (英語版)を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団から視認でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した[173]。梅津美治郎陸軍参謀総長と及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇に上奏した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたというが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、再び実行されることはなかった[174]。第二御盾隊の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった[175]。, 1945年2月中旬、硫黄島が攻略され、敵の沖縄攻略も遠くない状況になった。軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって第十航空艦隊を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された[176]。3月11日には、かねてから準備中の丹作戦が実行された。新設されたばかりの第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将の大きな期待を受けて、24機の新型双発陸上爆撃機銀河で編成された「梓特別攻撃隊」が出撃したが、途中で脱落する機が続出し、1機が正規空母「ランドルフ」に命中したに留まった。銀河はランドルフの飛行甲板後方に命中したため、死傷者は150名以上と人的損害は大きかったが、致命的な損傷には至らなかった [177]。, 1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた[178]。第五航空艦隊が迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、九州沖航空戦となった[179]。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母「フランクリン」と「ワスプ」が大破、「エセックス」が中破するなど多大な損害を被った[180]。正式に兵器として採用された特攻兵器桜花は九州沖航空戦が初陣となった[181]。3月21日に第五航空艦隊司令宇垣纏中将が、第七二一海軍航空隊に、偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の岡村基春大佐が攻撃中止を上申したが、宇垣は「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と岡村を諭し、出撃を強行している。その後、偵察機より続報が入りアメリカ軍空母はもっと多数であることが判明したが作戦はそのまま続行され[182]、野中五郎少佐に率いられた一式陸攻18機の攻撃隊は、護衛の零戦25機が故障で帰投するという不幸もあって、岡村に懸念通り、アメリカ空母の遥か手前で戦闘機の迎撃を受けて全滅した[183]。, 1945年3月1日の大海指第510号「航空作戦ニ関スル陸海軍中央協定」により、陸軍飛行隊第6航空軍などが連合艦隊の指揮下に入り、陸海軍協同で特攻作戦を推進していくことになった[184]。1945年3月25日、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸を開始したとの情報が連合艦隊に入ると、3月20日に大本営により下令された天号作戦に基づき、連合艦隊は1945年3月25日「天一号作戦警戒」、南西諸島への砲爆撃が激化した翌26日に「天一号作戦発動」を発令した。連合国軍を沖縄で迎え撃つ第五航空艦隊の可動戦力は、九州沖航空戦での消耗で航空機50機足らずとなっていたが、「天一号作戦警戒」発令により鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は、第五航空艦隊司令官宇垣纏中将指揮下に入った[185]。 That it is The Seafires' best day was 15 August 1945, shooting down eight attacking aircraft with a single loss. Bill Gordon, an American Japanologist who specialises in kamikazes, lists in a 2007 article 47 ships known to have been sunk by kamikaze aircraft. After the fall of Saipan, the Japanese High Command predicted that the Allies would try to capture the Philippines, strategically important to Tokyo because of the islands' location between the oilfields of Southeast Asia and Japan. 2. Suicide-mission pilots looked over their shoulders to see the mountain, the southernmost on the Japanese mainland, said farewell to their country and saluted the mountain. Yokosuka MXY-7 Ohka rocket planes, launched from bombers, were first deployed in kamikaze attacks from March 1945. As the end of the war approached, the Allies did not suffer more serious significant losses, despite having far more ships and facing a greater intensity of kamikaze attacks. On 11 March, the U.S. carrier USS Randolph was hit and moderately damaged at Ulithi Atoll, in the Caroline Islands, by a kamikaze that had flown almost 4,000 km (2,500 mi) from Japan, in a mission called Operation Tan No. They said that the commander of a kamikaze attack should engage in the task first. The sinking of the ocean tug USS Sonoma on 24 October is listed in some sources as the first ship lost to a kamikaze strike, but the attack occurred before the first mission of the Special Attack Force (on 25 October) and the aircraft used, a Mitsubishi G4M, was not flown by the original four Special Attack Squadrons. Anh hiện đang là thành viên ban nhạc TRINITY trực thuộc công ty giải trí 4NOLOGUE[1]. In 1942, when U.S. Navy vessels were scarce, the temporary absence of key warships from the combat zone would tie up operational initiatives. They never returned, but there is no record of an enemy plane hitting an Allied ship that day. One, under heavy fire and trailing smoke, aborted the attempt on White Plains and instead banked toward USS St. Suicide attacks by planes or boats at Okinawa sank or put out of action at least 30 U.S. warships[35] and at least three U.S. merchant ships,[36] along with some from other Allied forces. When you eliminate all thoughts about life and death, you will be able to totally disregard your earthly life. The British were able to clear the flight deck and resume flight operations in just hours, while their American counterparts took a few days or even months, as observed by a U.S. Navy liaison officer on HMS Indefatigable who commented: "When a kamikaze hits a U.S. carrier it means six months of repair at Pearl Harbor. The Japanese considered the goal of damaging or sinking large numbers of Allied ships to be a just reason for suicide attacks. [58], Some Japanese military personnel were critical of the policy. Kamikaze (Japonca: 神風, Japonca telaffuz: [kami kaze], lit. It was sent to US alternative radio stations as the album's second single on April 17, 2018, through RCA Records. This brutal "training" was justified by the idea that it would instill a "soldier's fighting spirit", but daily beatings and corporal punishment eliminated patriotism among many pilots. Provide me with 300 planes and I will turn the tide of war. On 19 June 1944, planes from the carrier Chiyoda approached a US task group. A final element included intensive fighter sweeps over Japanese airfields, and bombing of Japanese runways, using delayed-action bombs to make repairs more difficult.[31]. Such situations occurred in both the Axis and Allied air forces. There is no other way. We tried to live with 120 percent intensity, rather than waiting for death. The U.S. Fast Carrier Task Force alone could bring over 1,000 fighter aircraft into play. Many Japanese felt that to be enshrined at Yasukuni was a special honour because the Emperor visited the shrine to pay homage twice a year. Third Lapat is a Thai singer, model, and actor best known for his song titled ‘Love Warning’ which garnered more than 90 million views on YouTube. Allied pilots became adept at destroying enemy aircraft before they struck ships. The kamikaze shared ceremonial cups of sake or water known as "mizu no sakazuki". Entering a smoke stack was also said to be "effective". He lists: It was claimed by the Japanese forces at the time that there were many volunteers for the suicidal forces. without prior announcement. Su música explora el emergente jazz fusion del tipo presentado en Bitches Brew de Miles Davis, que había sido lanzado apenas dos meses antes. Many warships of all classes were damaged, some severely, but no aircraft carriers, battleships or cruisers were sunk by kamikaze at Okinawa. "[44] Okamura is credited with being the first to propose the kamikaze attacks. Most of the ships lost were destroyers or smaller vessels, especially those on picket duty. Third (1970) es un álbum doble de Soft Machine, en el que cada lado del vinilo original consiste en una composición larga individual. In total, seven carriers were hit, as well as 40 other ships (five sunk, 23 heavily damaged and 12 moderately damaged). "[46], As time wore on, modern critics questioned the nationalist portrayal of kamikaze pilots as noble soldiers willing to sacrifice their lives for the country. He had expressed his desire to lead a volunteer group of suicide attacks some four months before Admiral Takijiro Ohnishi, commander of the Japanese naval air forces in the Philippines, presented the idea to his staff. Yasukuni is the only shrine deifying common men which the Emperor would visit to pay his respects. [2] Kamikaze attacks were more accurate than conventional attacks, and often caused more damage. With his superiors, he arranged the first investigations into the plausibility and mechanisms of intentional suicide attacks on 15 June 1944. Like all Army and Navy servicemen, the kamikaze would wear their senninbari, a "belt of a thousand stitches" given to them by their mothers. 航空戦力は日を追って強化され、海軍だけで4月1日時点で300機[186]、この後も順次戦力増強が進み4月19日までに合計2,895機もの大量の作戦機が九州の各基地に進出した[184]。, 3月26日、慶良間諸島にアメリカ軍が上陸した直後に第五航空艦隊は特攻出撃を開始、4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、4月1日35機、2日44機、3日74機と出撃機数は増えていき、空母1隻大破、巡洋艦2隻撃沈などの華々しい大戦果を挙げたと報じられた[187]。この戦果報告は過大であったが、実際にも輸送駆逐艦(高速輸送艦)「ディカーソン」撃沈[188]、 レイモンド・スプルーアンス中将が座乗していた第5艦隊旗艦の重巡「インディアナポリス」[189]、イギリス海軍正規空母「インディファティガブル」[190]、米護衛空母「ウェーク・アイランド」[191] が甚大な被害を受けて戦線離脱、米戦艦「ネバダ」と「ウェストバージニア」を含む28隻が損傷し、合計約1,000名の死傷者を被るなど連合国軍の損害は大きかった[192][193]。大きな損害を被ったアメリカ軍は「やがて来たる恐るべき戦術-特攻の不吉な前触れ」であったと評している[194][195]。, 大本営は4月6日に、航空戦力を集中した大規模な特攻作戦菊水一号作戦を発令、大量の特攻機を出撃させると同時に戦艦大和による海上特攻を敢行した[196]。その後も菊水作戦は続き、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた[197]。太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツは、1945年4月12日に戦況報告のため腹心のフォレスト・シャーマン太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣し、詳細な戦況を報告させたが[198]、それでも飽き足らず、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に乗り込んでいる[199]。ニミッツは陸軍の進撃速度が遅いため、海軍の損害が激増していると 第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将に詰め寄ったが、あまりにも慎重なバックナーの姿勢に、普段は温厚であるニミッツが激高して「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍は忌々しいカミカゼから解放される」と言い放っている[200]。, 前線での苦戦の報告を受けた米海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えた[201]。特攻に苦しめられていたアメリカ軍がその対策として、B-29を日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、九州の特攻基地攻撃の戦術爆撃に転用し[202]、B-29の戦力の75%、延べ2,000機がこの特攻機基地攻撃に振り向けられたため、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[203]。しかし、戦略爆撃機であったB-29は、特攻基地爆撃のような任務には不向きで[204]、九州の各飛行場に分散配置されている特攻機に大きな打撃を加えることはできなかった。B-29の爆撃効果に失望したスプルーアンスは「アメリカ陸軍航空軍は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にアメリカ海軍はアメリカ陸軍航空軍の支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[205]。, 第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、全く防御一点張りのような戦術で作戦海域に常時留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はレイモンド・スプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった[206]。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた[207]。スプルーアンスはのちに沖縄戦での特攻に対して「特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる」や[208]「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった。」と回想している[209]。, 沖縄戦の大勢が決すると、本土決戦に向けた準備が本格化した。海軍大臣の米内光政は決号作戦の準備として、全海軍部隊を指揮できる海軍総隊を新設し、司令長官に連合艦隊司令長官豊田副武を兼務させ強力な権限を与えて本土決戦準備を進めた。その豊田は、5月17日に第十航空艦隊の残存機の九州進出を中止するという命令を出した。鈴鹿以西の作戦可動航空戦力は第五航空艦隊宇垣の指揮下とするという従来方針からの後退で、宇垣の指揮下から離れた航空戦力は「決号作戦」に備えて錬成せよという命令も出された。これは、沖縄決戦に全航空戦力を投入しようとしていた海軍首脳部の作戦指導方針の明らかな転換であり、この後は本土決戦に向けての航空戦力の温存が図られて、沖縄への特攻機の出撃は減少していくこととなる。この命令を聞いた第5航空艦隊参謀長横井俊之少将は「最高統帥が決号(本土決戦)か天号(沖縄戦)の岐路に迷い、バランスが今まさに破れんとするこの絶好のチャンスに沖縄決戦の見切りをつけてしまったのである。前線の将士がいかに地団駄ふんでヂリヂリしてみても、大本営の腰がふらついているのでは所謂「ごまめの歯ぎしり」で何の役にも立たない」と感想を持った[210]。5月29日には豊田は軍令部総長に任じられ、連合艦隊司令長官には、軍令部次長の小沢治三郎中将が親補された[211]。そして小沢の後任には大西を任命した。米内は戦争を終えるべきと考えていたが、陸軍の主戦派らの不満を抑え込むため、講和派の井上成美海軍次官更迭に加えておこなわれた人事であった。海軍内でも講和派からは煙たがられたが、主戦派は本土決戦に向けてこの人事を歓迎している[212]。, 日本軍は沖縄戦の3ヶ月間で特攻機1,895機[213]、通常作戦機1,112機[167] を失ったが、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、アメリカ軍の公式記録上では艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[214]、その大部分は特攻による損害で[215]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[216]。, 沖縄戦が終わってからは特攻は少数機により夜間攻撃が主体となっていたが、アメリカ軍艦隊は警戒を緩めておらず[217]、アメリカ海軍水兵は夜間に絶え間なく続く戦闘配置命令でほとんど夜寝ることができず疲労困憊していた[218]。特攻と並行して行われてきた通常攻撃機による夜間航空雷撃も戦果を挙げており、8月12日には、海軍航空隊第九三一海軍航空隊の天山4機が20時45分に、バックナー湾に停泊している戦艦ペンシルベニアに夜間攻撃をしかけて魚雷を命中させている。ペンシルベニアは艦尾に30フィートの大穴があき、上甲板に海面が迫る程大量に浸水し、3つのスクリューのうち2つが破壊されるという深刻な損傷を被った[219][220]。また20名の戦死者と10名の負傷者が出たが、負傷者の中には第1戦艦戦隊司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将も含まれていた[221]。的確なダメージ・コントロールで沈没は逃れたが、沖縄戦における通常攻撃機での夜間攻撃最大の戦果となった。翌13日には夜間攻撃の特攻機が、同じくバックナー湾に停泊中の攻撃輸送艦 ラグランジ(英語版) に命中、ラグランジは大破し、101名の死傷者を出す甚大な損害を被っている[222]。特攻機に対する夜間攻撃対策としてアメリカ軍は各艦艇に、灯火管制と煙幕の展張を命じており、また、夜間の特攻機はアメリカ軍の対空機銃から発射される曳光弾を辿ってアメリカ軍艦艇を攻撃してくるため、各艦個別の対空射撃を禁止するほどの徹底ぶりだった[223]。, 日本軍は、菊水作戦の戦果によりアメリカ軍に対抗可能な戦術は唯一特攻であるとの認識となり、本土決戦の方針を定めた「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」において、特攻を主戦術として本土決戦を戦う方針を示されている。軍令部豊田総長は「敵全滅は不能とするも約半数に近きものは、水際到達前に撃破し得るの算ありと信ず」と本土に侵攻してくる連合軍を半減できるとの見通しを示している[224]。豊田の見通しに基づき「敵予想戦力、13個師団、輸送船1,500隻。その半数である750隻を海上で撃滅する。」という「決号作戦に於ける海軍作戦計画大綱」が定められたが[225]、その手段は、1945年7月13日の海軍総司令長官名で出された指示「敵の本土来攻の初動においてなるべく至短期間に努めて多くの敵を撃砕し陸上作戦と相俟って敵上陸軍を撃滅す。航空作戦指導の主眼は特攻攻撃に依り敵上陸船団を撃滅するに在り」の通り、特攻となった[226]。海軍は本土決戦のために5,000機の特攻用の稼働機を準備し、さらに5,000機を整備中であった[227]。, しかし、沖縄戦で大量の実用機を喪失していた海軍は、練習機や水上偵察機といった本来なら実戦には投入困難な機体も特攻に投入する計画で、準備された特攻機の中でそのような機体が多数を占めた。終戦時に残存していた機体で最も数が多かったのが、九三式中間練習機(水上練習機型も含む)の2,791機であり、2番目は零戦1,017機、3番目は紫電改(紫電を含む)376機と実用機であったが、4番目は練習機の白菊365機であった[228]。飛行教官は、練習機に爆装して特攻する予定の特攻隊員らに「もし敵が本土上陸を開始すれば、海軍に5,000機、陸軍に8,000機の飛行機が現存している。飛行機と名の付く飛行機には、全機爆装して出撃する。5機に1機の割合で、敵の上陸用舟艇に命中すればその8割は撃滅できる。あとの2割は本土防衛隊が波打ち際で撃退する。われに勝算あり、必ず勝つ!」と檄を飛ばし士気を鼓舞していたが、これが机上の空論でナンセンスな話であることを認識していた特攻隊員も多かった[229]。, 一方でアメリカ軍は、沖縄で特攻により被った甚大な損害を重く見て「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である」「連合軍の空軍がカミカゼを上空から一掃し、連合軍の橋頭堡や沖合の艦船に近づかない様にできたかについては、永遠に回答は出ないだろう、終戦時の日本軍の空軍力を見れば連合軍の仕事は生易しいものではなかったと思われる」と評価し、ダウンフォール作戦が開始され日本本土決戦となった場合、特攻機による撃沈破艦が990隻に達すると見積もっていた[230]。, 神風特攻隊は1945年8月15日の終戦まで続いたが、本土決戦のために大量に準備された特攻機が出撃することはなかった。第五航空艦隊司令長官として沖縄戦における航空特攻を指揮した宇垣も、特攻に出撃して戦死した。終戦後の8月16日、神風特攻隊を創設した大西は、死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝すること、後輩に軽挙は利敵行為と思って自重忍苦し、日本人の矜持も失わないこと、平時に特攻精神を堅持して日本民族と世界平和に尽くすように希望する旨の遺書を残して割腹自決した[231]。大西は台湾にいたとき副官に「剣道はできるか?俺の骨は太いよ。介錯するときに、骨が折れますよ」と話したことがあったが、自刃するさいには介錯人はおかず、深夜一人で割腹し、頸動脈を斬り、心臓を貫いた。それでも明け方までは息があって、駆け付けた多田武雄海軍次官や児玉誉士夫に「できるだけ永く苦しんで死ぬんだ」と言って治療や介錯を拒みながら息を引き取った[170]。この自決によって、大西も神風特攻隊の戦死者として名簿に記載された。, 陸軍「と号部隊」によるものと合わせた戦果は下記の通りとなる[232][233][192][193][234][235][236][237][238][239][240][241][242][243][244]。, 特攻の戦果は諸説ある。航空特攻で撃沈57隻 戦力として完全に失われたもの108隻 船体及び人員に重大な損害を受けたもの83隻 軽微な損傷206隻とする説[246]。航空特攻で撃沈49隻 損傷362隻 回天特攻で撃沈3隻 損傷6隻 特攻艇で撃沈7隻 損傷19隻 合計撃沈59隻 損傷387隻とする説[193]、航空特攻によるアメリカ軍のみの損害で、66隻が撃沈ないし修理不能、400隻が損傷など諸説ある[247]。, アメリカ軍は、フィリピンで特攻により大きな損害を被った教訓として、沖縄本島近海で作戦行動をとる主力艦隊や輸送艦隊を包み込むように、半径100kmの巨大な円周上に、レーダーを装備したレーダーピケット艦を配置し早期警戒体制を整えた。このレーダーピケット部隊は第5上陸作戦場スクリーン隊という部隊名であったが、一般的にはレーダーピケットラインと呼ばれた[248]。レーダーピケット部隊は駆逐艦や高速輸送艦(輸送駆逐艦)1隻に対し、対空装備を満載した上陸支援艇、掃海艇、駆潜艇などの小型艦2隻を最小単位として編成されており、二重に主力艦隊や輸送艦隊を取り囲んでいた。高速空母艦隊の第58任務部隊も輸送艦隊と同様に、高速空母隊の周りに警戒駆逐艦を配備し早期警戒に当たらせていた[249]。, 日本軍はアメリカ軍のレーダーピケットラインを寸断するために、レーダーピケット艦を優先攻撃目標の一つとしており、また出撃した特攻機もアメリカ軍の大量の迎撃機に阻まれて、最初に接触するレーダーピケット艦を攻撃することが多く[250]、その消耗は激しかった[251]。ニミッツはアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカ軍が)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している」と請願し[198]、ドイツ海軍のUボートを制圧していた大西洋の駆逐艦や護衛駆逐艦が続々と沖縄に派遣された[252]。アメリカ軍は、レーダーピケット艦が沈められた時に生存者の救出を図るため、レーダーピケット艦の周りを小型艇でびっしりと囲ませていた。そのような小型艦艇は「棺桶の担い手」と呼ばれ、実際に、特攻で粉砕されたレーダーピケット艦の生存者を救出し、遺体を収容している[253]。, レーダーピケット艦は特攻機を早期発見するという本来の任務のほかに、結果的に特攻機を引き付ける役割となってしまい、特攻機は何度もレーダーピケット艦に対する攻撃に集中し、大破して沈没寸前の艦にまで執拗に体当たりを繰り返した[254]。特にレーダーピケットラインの中枢で、「ブリキ缶」「スモールボーイ」などの俗称で呼ばれていた駆逐艦の損害は大きく[248]、「まるで射的場の標的の様な形で沖縄本島の沖合に(駆逐艦が)配置されている」と皮肉を言われるほどで[255]、やけになった駆逐艦の乗組員が、駆逐艦の艦尾に大きな矢印をつけて「日本の特攻隊員よ、空母はこの方向です!」と示したほどだった[254]。 Propeller aircraft with a wooden airframe that used engines from existing stocks exploding, the. 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